俺には彼氏がいた。出逢った頃は嬉しくて、幸せで、こんな日がずっと続くと信じていた。
まだろくに恋愛なんて経験もなくて、それほど深く人を愛したこともない俺が、これが恋愛なんだって知った。
21歳の冬。
確かあの日は、東京に雪が降った。粉雪だ。
ゲイの出会いはいつも曖昧だ。最初から体の関係で始まることも珍しくない。
俺達もそうして出会った。体を重ねて、呑みに行って、その場で連絡先を交換した。
嬉しくて、楽しくて、電車に乗りながらずっとメールをしていた。さっきまで一緒にいたのに、もう恋しくて、メールが待ち遠しくて、早く返信したくて携帯の画面に夢中になっていた。
気がつけば自分が降りる駅はとっくに通り越して、知らない場所まで行っていた。夢中になっている自分が嬉しかった。
彼は、8個歳上で、当時は29歳。実際より見た目は若く見えた。
何もかも理想だった。両親がバブルの頃に始めた居酒屋で働いている。安さが売りの比較的広めの店らしい。長男で、父親の体が壊れてからは店の経営もしている。
すごく忙しい人で、休みはほとんどなくて、日曜日の午後しか空いてない。平日も早朝から仕込みや買い出し。夜は店で接客や調理。ランチタイムもある。
その時は、彼のことが本当に羨ましくて、尊敬していた。家族を大切にする人で、仕事に一生懸命だったから。
一方俺はコールセンターで派遣の仕事。経営者と派遣社員、その差は自分を幼く思うのに十分な理由だった。
出逢った頃は彼と釣り合わない自分がもどかしかった。俺は週に5日、8時間働いて、休みは平日。月に何度か土日も休める程度だった。
だから、お互い時間が合わなくて全然会えない。それでも彼は時間を作って会いに来てくれていた。仕事を早く終わらせたり、日曜日は毎週家に泊まりに来てくれた。俺は無理しないように言ったけど、全然聞いてくれなくて。
「無理やり時間作ってでも会いたいから。」
そう言って週に2度くらいのペースで会いに来てくれた。
もともと不良だった彼は、そんな面影がないほど優しくて、かっこよくて、見た目も中身も大好きだった。広い肩に太い腕。色黒の肌も太い指も。不器用な話し方とか、感情表現が下手な所も。
それでも時々、距離を感じることもあった。思ったことを口に出さない所とか。
でも、そんなことはどうでもよかった。そう言い聞かせていたのかもしれない。大好きだったから。
彼の望む自分になりたかったし、無理をさせている自分が子供みたいで嫌だった。早く彼に追いつきたくて、早く大人になりたくて、必死だった。
本当に本当に、好きだったから。
今でも思い出す。何も変わらない。変わることができない。幸せな頃のことを思い出すと、今でも嬉しい気持ちになる。だけど、すぐに辛い思い出も蘇ってきて、最後には虚しさと寂しさが襲ってくる。
花火大会の夜、悟の元から逃げ出した俺は東京に戻ってから働き始めた。収入は十分だったけど、家に一人でこもっていると、こうやっていろいろ考えてしまいそうで、嫌だった。
昔の友達が紹介してくれた自転車店。大きなショッピングモールの中にあるお店で規模が大きい。
自転車の知識はないし、何の経験もないけど、体力仕事や書類仕事は意外に多くて、店長もいい人で、週に3、4日働いている。友達も同じ職場だから、随分気が紛れた。
だけど、帰り道とか家に一人でいる時は、いつも思い出してしまう。6年前のことも花火大会のことも。
数か月に1度、トラックに乗って上司と出かける。区が違法駐輪で回収し、持主がずっと現れない自転車を修理して格安で売り出しているらしく、それを購入して店で販売しているそうだ。区外でも購入可能で、中古だが格安、比較的きれいな自転車らしく、毎回購入していた。自転車は早い者勝ちで、俺は早朝から同行する。
俺達は朝から区の自転車販売所をまわり、毎回4台くらい購入する。まあまあ多い方だと言われた。トラックに乗っている時はなにもすることが無くて退屈だけど、現場につくと次々と自転車を載せて、固定して、持って帰る。時間が経つのは早かった。
いつも店へ帰るまでの道中、決まって通る道がある。俺はその道へ近づくと毎回嫌気がさしていた。信号が赤の時はしばらくその場所にとどまる。ほんの数分だけど、すごく嫌だった。
それは昔、俺が住んでいた場所。ぼろいアパート。窓が壊れて開かない、古いくせにピンクのペンキが塗られたセンスの悪いアパートだった。部屋は畳で、6畳のワンルーム。ずいぶん長い間、あそこで過ごした気がする。
「何でメールくれなかったの?俺、ずっと待ってたのに。」
俺は家でベッドに横になりながら彼氏にそう尋ねた。付き合って1ヶ月目くらいだったと思う。
「毎日お休みのメールくれるって約束したのにさ。傷ついたよ。俺のこと想ってないのかなって。忙しいのかもしれないけど、疲れてる時に頼ってくれないんじゃ、俺いる意味ないよ。」
つまらないことだった。寝る前にいつもメールをくれていたのに3日連続で彼氏は寝てしまった。ただそれだけだった。
まだ子供だった。深夜になりもう寝ているはずなのに、来るわけなんかないメールを何時間も待っていた。毎日待って、気がつけば朝方になって、疲れて寝る。
今考えてみると、俺が待っていたのはメールなんかじゃなかったんだと思う。
彼を傷つけるつもりなんかなかったけど、俺の彼を責める言葉はやっぱり子供じみていた。本当は言葉にしてほしいだけだった。形が欲しかった。疲れている時に俺の声を聞くと疲れが吹き飛ぶ、俺のメールを見ると元気になる、そう言ってほしかった。
きっとたくさん貰っているんだろうけど、もっと欲しかった。常に求めていた。
どうしてあんなに、いつも不安だったのか、今考えればわかる気がする。あの頃はまだ、責める以外にそういうものから自分を守る方法を、見つけられなかった。
大抵彼は、俺が怒っている時は、何を言っても黙ったままだった。何も言わず、ただじっと俺の話を聞いているだけ。それが何だか虚しくて、俺はますます自分が嫌いになるだけだった。
彼氏はよく言っていた。言ってくれなきゃ分からないって。だから何でも言って欲しいって。
自分は何も言わないのに。言う方の辛さなんて、きっと何も知らないのに。
一言でも言い返してくれたらどんなに楽だっただろう。思い切り怒れるのに。でも彼は俺に謝りもせず、責めもせず、言い訳もせず、ただじっと黙って聞いているだけ。俺の聞きたい言葉を言ってくれることは絶対になかった。
「本当はさ・・・。」
結局、何も解決しないまま遅い時間を迎えた。その日は何もせず、電気を消して寝るだけ。抱き合うこともなく、明日になれば何食わぬ顔で家を後にするんだろう。俺は自分にも彼にもいら立ったまま、眠れない夜を過ごしていた。きっと彼はすぐ寝てしまう。いつもそうだった。疲れているんだろう。もう寝ているかもしれない。それならそれでいい。俺は小さい声で話し掛けた。
「ん?」
彼はどうやらまだ起きているようで、俺の声に返事をした。いつもの優しい声で。
「この前帰った後、合いカギ作ったんだ。それを渡そうと思ってたのに。」
そう言った途端、彼が急にベッドから起き上がった。
「成樹!」
今までが嘘のように大きな声で俺の名前を呼ぶ。
「え?」
俺はただ驚くしかない。
「鍵欲しい!」
まるで無邪気な子供みたいだった。
「俺の話聞いてた?俺がどんな思いでメール待ってたか!」
俺も素直になれない。
「うん!ごめん!だから鍵欲しい!」
「・・・・・・あはははは!」
俺は思わず笑ってしまった。その顔を見て、彼も嬉しそうだった。俺は鍵を渡した。なんか同棲みたいで嬉しかった。そんなことで、たったそれだけで昨日までの寂しさなんて一瞬でどうでもよくなって、俺達はまた体を重ねた。それがきっと俺の求めていた形だったんだろう。
あの頃俺は、仕事の帰り道、遅い時間に毎日住宅だらけの人気のない道を歩いて帰る。家の近くの信号を渡ると、当時の俺の部屋が見える。ちょうど、自転車を運ぶ帰り、信号待ちしているこの辺りから見える。アパートの2階。
壊れて開かない窓が見えそうになる度に考えていた。彼氏が家で待っていてくれないかなって。俺が帰る前にもう家にいて、俺のことを待っていてくれないかなって。そういうのに憧れていた。些細なことだけど、普通の付き合いがしたかった。男と女が付き合うみたいに普通の付き合いが。
外では人目を気にして、手もつなげない。体に触れるのも気を使う。彼氏も俺も、周りの目を気にしてしまう。だから、せめて家で待っていてほしいと思った。喧嘩した日とか、しばらく会えなかった時とか、俺の仕事や彼の仕事が早く終わった日とか。ご飯を作ってくれなくてもいい。プレゼントもなくていい。一度でいい。ただ家にいて、寝ていてもいいから俺を待っていてくれないかなって。
だけど、そんな小さな夢が叶うことは一度もなかった。俺は横断歩道を渡る度、暗いままの窓を見て、ため息をつく。そして、誰もいない部屋のドアを開けた。
俺が渡したあの鍵を、彼は結局一度も使うことはなかった。
あの頃から俺は自分が少しずつ嫌いになって行った。そして、今も。