暑い太陽の光は、砂の温度を高める。茶色い砂は熱をどんどん吸収して、裸足では耐えきれないほど暑くなっている。砂に温められた熱風はまるでサウナのようだ。その砂を冷やす波。
だけどその時は、何も感じなかった気がする。何も聞こえなかった気がする。暑い風も、静かな波の音も、周りではしゃぐ声も。何も聞こえなくて、何も考えられずに、俺は立ち尽くしていた。
俺が覚えている彼の姿とは随分違う。だけど、その声はあの時のままだ。
「あの・・・成樹?」
気まずそうに、俺に再び声を掛ける。俺は我に帰った。
「・・・ああ。」
俺は急に気まずくなり、少しうつ向き気味に視線を逸らす。
「誰かと来たの?」
彼はそう言いながら1歩俺に近づいてきた。
「あ、いや。待ち合わせで・・・その、友達と。」
彼は少しだけ微笑みながら小さく頷いた。
俺達の距離感はなんだか不自然で、近くもなく遠くもない。彼もそれ以上俺に近づこうとしなかった。2人の間に気まずい沈黙が流れる。
「・・・友達、待ってるんでしょ?」
彼が先に口を開く。
「・・・うん。じゃあ。」
そう言って俺は振り返った。
ついこの間、わざわざ店にまで行ったのに、俺はそのまま去ろうとしていた。彼に背を向けて立ち止まる。なんだかそれじゃいけない気がしたから。このまま何も言わずに別れたら、いけない気がした。
「誰と待ち合わせ?」
俺は振り返る。そこにはまだ彼がいて、俺を見つめていた。相変わらず不器用で、言葉選びが下手で、不安げに俺を見つめるその顔を見て、俺は肩の力が抜けてしまう。
見た目は変わっても、何も変わってない彼の姿になんだか安心してしまった。
俺の顔にもう緊張の色はなく、ごく自然に出た言葉だった。
「・・・古い友達と。」
昔みたいに、子どもみたいな笑顔を見せる。俺の口調を感じ取り、向こうも少し緊張がほぐれたようだ。
「ちょっと話さない?その・・・久しぶりに・・・さ。」
照れ臭そうに、嬉しそうに彼がそう言った。何年振りだろう、彼の嬉しそうに笑う顔を見たのは。
俺達は日蔭のベンチに座っていた。ここはずいぶん涼しい。波打ち際からは少し離れている。近くの公園みたいなところで、海が見える。
すぐ隣に座る元彼。その光景だけみるとまるで昔のようだ。
「成樹、元気にしてた?」
「うん。」
当たり障りのない質問をする彼。本当に不器用だ。
「彼氏とか・・・いるの?」
話題があまりに急に変わるから、俺は少し笑ってしまう。横を見て、彼の顔を見る。恥ずかしそうに前を向いて、はにかんでいる。
「・・・いない。」
俺の返事を聞いて、彼もこっちを見た。嬉しそうだった。
すごく、懐かしかった。
きっと、昔と同じで見た目を気にする人だから、筋トレもして日サロなんかにも行ってるんだろう。俺と付き合っていたころは忙しくてそんなことする暇はなかった。それでもスポーツマンみたいな体はしていたけれど、あのころに比べたら随分見た目が変わってしまった。それなのにやっぱり彼は彼だった。
「・・・俺は、あれから彼氏もできなかった。作る気になれなくて。成樹が最後。」
付き合っていたころはあまりしゃべらない人だった。しゃべるのも下手だった。決まって俺の機嫌が悪くなると、他愛もない質問を何度もしてくる。肝心なことは聞いてこないけど、イライラするほど日常的で広がらない質問をしてきた。俺の表情を覗き込みながら不安そうな顔で、ぎこちなく。
恥ずかしそうにしている彼を見て、そんな時のことを思い出した。
俺は前を向く。
「なんか・・・ちょっと老けたな。」
俺は落ち着いた口調で、懐かしみながらそう言う。彼は笑う。
「成樹は、大人になった。」
俺も微笑んだ。
なんだか不思議だった。こんなに落ち着いて話すなんて。あんなに苦しい思いをしたのに。あんなにすがりついた過去なのに。あんなに探した答えがあると思ったのに。こんなにも簡単だったなんて。どこかよそよそしくて、照れ臭くて、少しだけ嬉しい。すごく不思議だった。
「あのさ・・・俺、今も東京にいて、昔はまだ・・・お互い忙しかったし。」
彼が急に話しだす。不器用に。
「成樹も・・・もう昔付き合ってた頃の俺と、同じくらいの歳だし、俺も落ち着いたし。東京でまた会わない?」
言葉がすらすら出てこなくて下手くそな話し方。
いつのまにか、海を見つめていた。思い出していた。昔の彼とのことじゃない。
朝日が昇り始めた肌寒い海で、俺を無理やり起こして連れてきたくせに、俺を置いて一人波の中に消えては出てくる姿を。
「昔は成樹にいろいろ言われたけど・・・・・・でも・・・今なら、また・・・お互い理解しあえると思うし。あの時の俺のことも分かってくれると思う。・・・俺が経験してきたから、俺は成樹の痛みもわかるし。」
なんで、こんな時に思い出すんだろう。ただ俺を連れてきただけで、一緒に海に誘われるわけでもなく、何か話す訳でもなく。俺を車に残して、ウェットスーツの入っていたトランクも開けっぱなしで、一人波に向かって行った。
「だからさ・・・・・・もうお互いいい歳だし、今なら・・・何て言うか・・・落ち着いた関係になれると思う。またさ・・・。」
きっと知っていたと思う。トランクに腰掛け、俺が見つめていたことを。何を見せたかったのか、自分の姿をどう捉えてほしかったのか、それはわからない。だけど、見てほしかったんだと思う。それに、嬉しかった。だから忘れられない。
俺は、急に立ち上がった。彼は言葉を止めて俺を見る。
「・・・俺、もう行くわ。」
「え?」
「ごめん、その話・・・パス。」
俺は真っ直ぐ海を見てそう言った。彼は驚いた様子で俺を見上げている。とっさに戸惑いながら苦笑いしている。彼の精一杯の誤魔化しだったのかもしれない。
そして、俺は歩き出した。もう振り返ることはなかった。後悔もなかった。それが俺達の最後になるなら、それでいい。一日携帯の前で待って、なんの言葉もなく、何の別れもなく終わった7年前のあの日よりは、ずっといい。
それが俺達の、本当の最後なんだと分かっていた。