もうこんなに暑いって言うのに、海の水はまだ冷たい。夏が進むにつれて暖まっていき、海水浴シーズンが終わるころが一番温かい。温かくなっている頃にはもう誰も海には入らなくなる。なんだか孤独に思えた。それはまるで、秋の花火みたいだ。
悟達に会う頃には、もうみんな昼ご飯を食べ終えていた。女将さんが俺の分にと取っておいてくれたバーベキューと冷たいビールを飲んで、裸になって海で遊んだ。汗だくの俺には少し冷たい水がちょうどよかった。
悟は相変わらず、いつも通りだ。皆と居る時は俺とはそれほど話さない。だけど俺が着いた時は笑顔で迎えてくれた。皆も俺との再会を喜んでくれた。俺も嬉しかった。
海で遊んで、スイカを食べて、かき氷を買いに行った。遅れたお詫びに皆の分をおごらされた。女将さんにも買ってあげた。
夕方には皆で片づけをして、一緒に帰った。女将さんの店まで荷物を運び、店でまた飲んだ。皆は大分酔って、俺達は解散した。
寮までは皆タクシーで帰った。しかし、俺と悟はタクシーには乗れなかった。席が無かったからだ。女将さんが、もう1台タクシーを呼んでくれた。俺達は店の外でタクシーを待つ。いつもなら歩いて帰れる距離だけど、皆酔っ払い過ぎていた。
特に悟は。
店の外でぐったりとしている。タクシーが来るまで10分程かかるみたいだ。女将さんは中で片づけをしている。
「悟?大丈夫か?」
随分気分が悪そうだった。なんだってあんなに呑んだのか。いつもよりも調子に乗っていたように見える。
「歩いて帰るぞ!」
悟は突然立ち上がり、そう言うと勝手に歩きだしてしまった。
「大人しくしてろよ。もうすぐタクシーが来るから。」
俺はそれほど呑まなかった。実を言うと、海からの帰り、そのまま帰ろうとしていたからだ。でも皆に、ほとんど無理やり連れてこられた。いつでも帰れるようになるべく呑まないようにしていた。
「タクシーなんか待ってられるかよ。」
悟は千鳥足で、今にも倒れてしまいそうだった。
「おい。あぶねーよ。」
俺は悟の肩を抱く。悟は俺に思い切り寄りかかって来た。半分目を瞑っている。もう眠いのだろう。
「早く帰ろうぜ。」
回っていない呂律と途切れるようなか細い、眠たそうな声でそう言った。
「すぐだから待ってろ。」
そんな俺の言葉を聞かずに、悟は足を進める。
「はぁ、まったく・・・。」
体がでかくて力も強いのに、そんな自覚もないのか、こっちの身にもなってほしかった。
俺は悟を抱えたまま、歩き出す。器用に悟を支えながら女将さんに電話を掛け、歩いて帰ると告げた。タクシーからお金を請求されたら、明日払いに行くと言った。
「また・・・花火見に来いよ。」
ぼそっとそう呟いた。すぐ隣にある悟の顔。そこからしっかりと俺の耳に届いた。俺ははっきり聞こえたけれど、何も答えなった。それ以上、悟は寮に着くまで何も話さなかった。それどころじゃないだろう。見ると半分寝ていたから。玄関で悟に無理やり鍵を出させて、中に入るとベットに寝かせた。いつもなら20分くらいの道も、長くかかってしまった。重たい体を支えながら帰ってくるのは正直しんどい。悟はそのまますぐに寝てしまった。俺はしばらく悟を見つめていたが、一人外に出た。
外にあるベンチ。俺はそこで一人座って空を見上げていた。ここは何も変わらない。
何もかも、久しぶりだった。ここから見る空も、女将さんの手料理も、あんなにはしゃいだのも、悟と遊んだのも。
そして、悟を支えたのも、悟の笑顔も、笑っている自分も。
彼と別れて、俺は何かから解放されたように楽しんだ。自分なりの決別だったのかもしれない。
本当に、嬉しかった。
ここに座っていると、いろんなことを思い出す。前にここに座っていた自分は、弱くてぼろぼろで卑怯で傷ついていたから。今だって大して変わらないのかもしれない。
だけど、今日彼と会えた。彼と会って、初めて気がついた。
あんなに伝えたかった言葉も、聞きたかった言葉もたくさんあったのに、何一つなくなっていた。何もなかった。海を見ながら悟を思い出して、そんな自分に気がついた時に、知った。
もう過去を背負い続けなくてもいいんだと。もう前を見ていいんだと知った。
俺は深くため息をつく。空は相変わらず綺麗だ。
今まで随分遠回りをしてきた気がする。俺が前を向くのに、今から遅くないだろうか。俺は空を見上げて、止まった時計を動かし始めてみようかなと、そう思った。
部屋に戻ると、悟はベットを占領し大きくいびきをかいて寝ていた。酔うといつもこうだ。俺は悟の顔を見つめた。
「花火か・・・。」
そんな言葉を、まだ掛けてもらえるなんて。
今日は、本当に楽しかった。
朝、まだ暗いうちに悟は起きて準備をし始めた。俺もその音で目が覚めた。うっすら明るくなってきた空を見上げながらベンチでたばこを吸っていると、悟が借りてきた車でやってくる。俺は煙草を消して車に乗った。
海に着くころには空が随分明るくなって、綺麗だった。夏の涼しい風を浴びながら、俺は悟が波に乗る姿を見つめていた。昔と同じ。何度も波にさらわれながら、また立ちがり、何度も挑戦する。その姿が、俺を変えた。悟に出会ったあの日から、ずっと悟が俺を変えてくれた。
ボードを抱えて、ウェットスーツを上だけ脱ぎ、こっちを向いて少し離れた場所に立っている。
「会えたのか?」
悟はどこかさみしそうに見える。俺は頷いた。
「そうか。」
悟はたったそれだけ。他には何も言わない。まるで何かを覚悟していたように。寂しそうだった。
「お前に・・・。」
俺はそう言って立ち上がる。
「伝えたいことがある。」
悟の顔は、いつもよりも真剣になる。その顔が愛おしくて、かわいくて、俺は肩の力が抜けてしまう。
だから楽に話せた。
「最近、良く思い出す。
花火の夜のこと。
あの日は花火が上がるたびに、あの音が、なんて言うか、響いて・・・。胸が張り裂けそうなほど苦しかった。今になって思えば、あんなに楽しみにしてたのに・・・約束したのに・・・何で最後まで見なかったんだろうって。
せっかく楽しみにしてたのに、俺が見たのは最初に上がった花火だけだったから。
その後は・・・・・・ずっとお前を見てた。お前の後ろに上がった花火がオレンジ色で、ぼやけてたけど、はっきり覚えている。
俺さ、多分初めてだ。あんなに誰かのことを想ったのは。
それに・・・あんなに苦しかったのも。
だから、逃げるしかなかった。傷つきたくなくてさ。俺は臆病だし、そんな自分が嫌いだったし、いつか終わる恋だと思ってた。苦しい恋は早く終わってほしいって思ってたのに、ずっと愛されたくて・・・おかしいよな。
誰にも気づかれず、誰とも言葉を交わさず、そのうち皆の記憶からも消えていなくなれば、まるで世界から俺が消えたみたいだなって。だからいっそのこと消えたかった。また傷つくくらいなら、俺のことを忘れてほしかった。
だから静かに姿を消そうと思った。
もしも・・・悟があの時、駅まで追いかけてこなかったら、俺はそのまま消えてたのかもしれない。そっちの方が楽だったのかもしれない。
だけど、お前の中から俺が消えても、お前は俺の中からは・・・消えない。・・・消えなかった。消せなかった。
一緒に見上げた空も、花火の約束も、キスしてくれたことも、この気持ちも。何もかも。
だから・・・・・・ちゃんと伝えたい。
悟・・・ごめん。お前とは付き合えない。
このままじゃ、俺は付き合えない。
ちゃんと、自分のこと好きになりたいんだ。誰かのことを想うのと同じくらい、自分のことも大切にしたい。逃げてばかりの俺じゃなくて、ちゃんと立ち向かえる強い男になりたい。誰かを守れる優しい男になりたい。
俺は・・・お前みたいな、男になりたい。
俺はまだ前を向きだしたばかりだから。だから・・・・・・ごめん。」
伝え終わった頃には、陽が昇っていた。明るく俺達を照らし、新しい一日の始まりを物語っていた。波の音だけが聞こえる、静かな朝だった。この景色を見る時は、いつだってそこに悟がいた。
きっと何かを乗り越えるのは、簡単なことじゃない。一度の絶望で、何もかもなくなってしまう。たった一つの間違いで何もかも消えてしまう。
辛いし、悲しい。自分のことが大嫌いになればなるほど心の傷は深くなる。
失って、傷ついて、迷って、逃げて。
だけど、俺の声を聞いてくれる人がいた。だから、ちゃんと言えた。伝えたい言葉があったから。
気がつくまで随分時間が掛かった。苦しんだ。傷つけた。やっとここまで来た俺はもしかしたらまだ歩き始めてもいないかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
悟に出会って、俺は自分の過去と向き合えた。自分と向き合えた。今まで嫌いだった自分を、改めて知った。
悟が俺を支えてくれた。守ってくれた。抱きしめてくれた。
だから、俺は自分を許そうと思う。嫌いだった自分を。
これからもっと時間が掛かるかもしれない。
でも、諦めない。
自分を許せるようになったら、自分が好きになれるかもしれない。そしたら、きっと誰かを大切にできる気がする。
そうやって、少しずつ乗り越えて行けばいい。躓きながらでいい。
悟が、そう教えてくれたんだと思う。
本当は「ありがとう」って言いたかった。でもやめた。まだ言わないことにした。いつか、伝えに来ようと思う。もっといい男になって。
「あっそ。」
悟が最後にそう言った。いつもみたいに素っ気ない言葉だ。
だけど、嬉しそうに笑っていたのを覚えている。